13歳のハローワーク公式サイト
MOBILE | PC
BLANK
インタビュー
●第32回 萩原浩一氏
→プロフィール
第1章 複雑な環境が醸成した、人を思う心と夢を追う力。

ラジオDJ&パーソナリティーの素地を築いた長唄。

―― 子どもの頃は、どのように過ごしましたか?

萩原:
僕には、神奈川県の茅ヶ崎と藤沢、そして東京の目黒に叔父叔母がいます。物心ついたときには、茅ヶ崎の祖母と叔父叔母に育てられていました。また、もうひとつの育ての親である東京の叔父叔母は、稀音家(きねや)という長唄のお師匠さんをやっており、3歳の頃から、毎週長唄を習いに行っていました。

いま思い返してみても自分ですごいなと思うのですが、当時、茅ヶ崎から目黒まで一人で通っていたのです。東海道線で品川まで行き、そこでバスに乗り換えて、目黒不動まで行っていました。いつも迷わずに行けたのは、「品川」という字は四角が3つで、「川」という字は縦棒が3本なので、覚えやすかったのだと思います。また、バスでは、「お不動さんに行くんだ」というと、周りの大人たちが親切にしてくれました。

練習は、教本を使わず、耳で覚えていました。叔父が唄って叔母が三味線を弾くのですが、古典なので意味は全然分からず、とにかく叔父の真似をしていました。

小学生になってからは通う回数が減りましたが、毎年正月と夏に行われる長唄の会には出て、日本橋の三越劇場や東京のホールなどで唄いました。舞台のおかげで人前でも緊張しないようになり、ラジオDJ&パーソナリティーの仕事をする上でも、大いに役に立っていると思います。

―― 将来は長唄のお師匠さんになろうと思ったことは?

萩原:
東京の叔父叔母には子どもがいなかったので、僕を跡取りにと考えていたようです。一方、幼かった僕は、唄ったあとに叔母さんからもらえるおもちゃが楽しみで、長唄をやっていました。でも、小学校の中学年になると、漠然と「将来は跡継ぎになるのかな」と考えるようになり、そのつもりで、叔父の後について回っていました。

ところが、小学6年生のときに、運動会の日と長唄の会の日がバッティングしてしまったのです。当然ながら、育ての親である茅ヶ崎の叔父叔母は運動会に出るべきと考え、もうひとつの育ての親であり、長唄の師匠でもある東京の叔父叔母は発表会に出て欲しいと思いました。そのため、自分では判断できず、小学校の担任の先生に相談することにしました。すると、「義務教育だし、小学生最後の運動会なので、学校優先だよ」と言われ、運動会に出ることにしました。今思うと、もしそのとき発表会を選択していたら、恐らくそのまま長唄の道に進み、ラジオDJにはなっていなかったのではないかと思います。

その後、声変わりの時期を迎えて、唄えなくなりました。とはいえ、舞台のことをよく分かっていたので、しばらくは、どん帳の上げ下げなど舞台裏の手伝いに行っていました。

ラジオで自分のハガキが読まれた日から、ラジオDJへの思いが心を占領。

―― ラジオDJ&パーソナリティーに興味を持ったのはいつ頃ですか?

萩原:
小学5年生のとき、僕のハガキがラジオで読まれてからです。いつだったかは覚えていませんが、茅ヶ崎の叔父からラジオをもらい、聴くのが楽しみになりました。そんな小学5年生のある日、学校から帰宅していつものようにラジオをつけ、お気に入りのNHK横浜FM放送を聴いていました。すると、「次は、茅ヶ崎市の萩原浩一君からのお便りです」と、突然僕の名前が呼ばれ、ハガキが読まれたのです。僕はラジオDJの言葉をひと言も聴き漏らさないよう、全身を耳にして聴きました。
それを機に、オープンスタジオへも足を運ぶようになりました。僕のお気に入りの番組は、土曜日の午後にオンエアされていた「オープンスタジオ よこはまFMリクエスト」でした。当時は、土曜日の午前は学校だったので、授業が終わると一目散に帰宅して、お昼ご飯を食べて、東京の叔父や叔母と一緒にスタジオへ行きました。そこでいつも、自分もあのお兄さんのようになりたいと思いながら、憧れのまなざしでラジオDJを見ていました。

―― ラジオDJに憧れるようになって、日常生活に変化はありましたか?

萩原:
当時は、アイドルの全盛期で歌謡曲があふれていて、テレビやラジオで音楽に夢中になっていました。また、クイズ番組やバラエティ番組も面白くて、あるとき、関西で制作された番組が面白いことに気付き、どうしてだろうと興味をもったこともあります。そのように、一歩引いてラジオやテレビに接すれば接するほど、情報を発信して人を楽しませる放送の世界がとても面白そうに感じ、興味が湧いてきました。

小学校高学年になると、迷わず放送委員会に入りました。そして僕が担当したとき、普通に話したつもりなのに、全然知らない先生が放送室に入ってきて「さっきのお昼の放送をやったのは誰だ?」と聞かれたのです。「僕です」と答えると、「しゃべりもうまいし、話題も面白い」とほめられたのです。それを聞いて、「もしかしたらラジオDJに向いているのかな」とちょっと嬉しくなりましたね。

中学に入ると、仲のいい友達が生徒会長になり、自分も役員をやらされました。そのとき、放送室があるのに放送委員会がなかったので、昼の放送をやろうよと提案したのです。そうして放送委員会をつくり、テスト放送ということで僕がアナウンスを担当しました。このときも、季節の話などを普通に話しました。すると、おっかない体育の先生がやって来て、「話す内容もいいし、音楽の選曲もいい」と褒められたのです。「やっぱりラジオDJに向いているのかな」と思いましたね(笑)。

親戚に負担をかけたくなく、部活の後にアルバイト。

―― 中学では、部活には入っていたのですか?

萩原:
陸上部に入っていました。走るのが好きだったわけではないのですが、1年生のときに、3000m走で2年生3年生を追い抜いて、一番速かったのです。それを陸上部の顧問の先生が見たのだと思うのですが、たまたま陸上部の練習風景を眺めていたら、その顧問の先生から「お前も一緒に練習しろ」と言われ、有無を言わさず部員にされたのです(笑)。一応、3年までやりましたが、練習は嫌いでした。

―― 中学卒業後の進路に関しては、どのような選択をしたのですか?

萩原:
当時、ミュージシャンやタレントを除くと、ラジオDJをやっているのは放送局の社員のアナウンサーで、そうなるには大学を卒業する必要がありました。僕自身、ラジオDJになりたい夢はますます募っていたし、叔父叔母も、僕を大学まで行かせたいと考えていたようです。とはいえ、叔父叔母に負担をかけたくなかったので、定時制高校に行くつもりでした。
でも、叔父叔母は全日制の高校に進学するよう促し、先生もそう勧め、わざわざ僕が行けそうな公立高校の候補を挙げてくれたのです。そこで、小学生のときに珠算と書道を習っていたことから、とりあえず商業高校を受験することにしました。

ところが、いざ受験してみると女の子ばかりでした。そのため、ここは自分には合わないと早々に見切りをつけ、午後の科目は大いに手抜きをしました。合格発表の日、当然、落ちている自信満々で(笑)、先生には「定時制高校の願書を出すので用意しておいてください」と言って行きました。すると、なぜか僕の受験番号があったのです。そんなことはないと思い、事務室に行き、「合格発表間違っていませんか?」と確認しました。そうしたら、「不思議なことを言うやつだな。調べてみるからちょっと待っていなさい」と言われ、しばらくして「間違ってないよ」と言われたのです。どうやら、平常点がかなりよかったらしく、それが底上げしていたのです。それで半ば仕方なく、商業高校に通うことにしました。

―― 高校生活は、どのように過ごしたのですか?

萩原:
部活は、高校でも陸上部に入りました。というのも、中学の陸上部の顧問と、高校の陸上部の顧問が大学の同級生で、僕の意思とは関係のないところで、「今度、萩原というやつが行くから、よろしく頼む」と話が行っていたのです。しかも、商業高校で男子が少なかったので、1年生でいきなり部長にならされました。決して好きで陸上を続けたのではなく、先生が怖くてやめられなかったのです(笑)。

この頃から、藤沢の叔父叔母のお世話になるようになりました。そこは社宅のアパートで子どもが3人いて、僕がいとこの机を使ったため、いとこはミシンを机がわりにしなければならず、申し訳ない気持ちで一杯でした。小さい頃から、親類のお世話になっているので、いつの間にかとても気を遣う性格になり、叔父叔母になるべく経済的負担をかけないよう、食べ盛りでしたがご飯は一杯だけでおかわりはしないようにしたり、毎日部活で汗を流した後、さらにスーパーや工場でアルバイトをしたりしていました。

そんなある日、いとこの末の子が、幼稚園で描いた家族の絵に僕を入れてくれていたことを聞きました。それは、とりもなおさず叔父叔母が子どもたちにそう教育しているからで、自分を家族と思ってくれていることを、とても嬉しく感じました。これが家族なんだなと、その温かさを教えてもらいました。僕は、叔父叔母への感謝の気持ちと、いとこたちを喜ばせたい気持ちから、アルバイト代が入るといとこたちを駄菓子屋などに連れて行って、「好きなもの何でも買っていいぞ」と買ってあげていました。それが、そのときに自分ができる最大の恩返しでした。

―― 将来については、どのように思い描いていましたか?

萩原:
高校を卒業したら、あとは自分でどうにかしなければいけないと、強く思っていました。ただ、商業高校の卒業生の多くは金融機関をはじめ、民間企業に就職するのですが、それには両親がいるなどの条件があり、僕はその方向に進めないことは分かっていました。また、ラジオDJになるために大学に行きたかったので、5時に仕事が終わる公務員を目指し、大学は通信制の大学に行くことに決めました。そのため、地方公務員、国家公務員の試験を片っ端から受け、結果、国家公務員の行政事務Cに合格し、厚生省(当時)の厚生事務官になることができました。

余談ですが、僕は横浜で受験し、合格発表は大手町の合同庁舎に見に行きました。その際、受験番号の兼ね合いで、僕の番号が一番上に書いてあったのです。早速学校に電話して、「一番上に書いてありました」と言ったら話が間違って伝わり、学校に戻ると、「うちの高校で初めて、国家公務員試験を一番の成績で合格した」と大騒ぎになっていたのです。聞くところによると、それは今でも語り草になっているようです(笑)。

インタビュー関連書籍 | 萩原浩一関連する本・DVDなど
「DJ・ハギー(萩原浩一)」さんに関連する本・DVDなどをAmazonでチェック。

BLANK
ページトップ

[第32回] 第1章 第2章 第3章
インタビュー一覧
[0]サイトトップ

Google

Web全体 13hw.com

お問合せ  ◎利用規約

(C)13hw