1934(昭和9)年生まれ。早稲田大学文学部を7年かけて卒業。60年岩波映画製作所入社、64年東京12チャンネル(現テレビ東京)に開局とともに入社。77年フリーに。以後、雑誌にテレビに八面六臂の活躍。現在、早稲田大学特命教授として「大隈塾」塾長、故郷滋賀県の「琵琶湖塾」塾頭も務める。
ゲストに向かってズバズバのものを言う姿が印象的なジャーナリストの田原総一朗氏。そんな氏も、若いときは多くの挫折を味わったそうです。どうやってそれを乗り越えたのか、ご自身の経験を交えて語っていただきました。
僕は自分の才能を見切るのが早いんです

―― 田原先生は、最初作家になりたかったそうですね。
そう。小説家にね。
――今でも作家の可能性を考えてみることは?
ないですね。学生のとき、石原慎太郎の『太陽の季節』と大江健三郎の『飼育』の2冊にダブルパンチを食らって、あきらめた。
――自分の才能を見切るというのは、難しいのでは?
僕は、見切るのが早いんですよ。もともと画家志望で、高校では入賞もしましたが、後輩の作品を見て「あ、これが絵」だと。僕の絵ではダメだと思いました。
不器用だから、会社在籍13年の間に3回干された
9社か10社落ちましたね。

いや、全然。僕は不器用な男でね。撮影助手になって最初の仕事で降ろされて、それから半年干されました。そんなとき、テレビのカメラマンから声を掛けられ、演出助手兼撮影助手として撮影して監督に見せたら「こんなもん使えない」と。プロデューサーに相談したら「もう金は出せない」と言われ、「これは辞めるしかない」と思い、辞表を書きました。出す前に同僚に相談したら「辞めるなら、その前に自分で編集しちゃえば?」と。それで、編集してオンエアしたんです。
初めて。当時はヌーヴェルバーグという時代で、ゴダールとかアラン・レネといった監督がフランスで有名でした。そこで、ゴダールのとおりに編集したの。そうしたら、えらい評判になって、賞をとっちゃったの。撮影助手失格が、1本で演出家になったんです。面白いですね、世の中って。その頃、東京12チャンネル(現テレビ東京)が開局し、そこへ入った。当時、東京12チャンネルは見る人がいなかったけど、僕は勝負したいと思った。NHKやTBSや日本テレビと。
視聴率が高い。評判になる。では何で勝負するか。彼らが考えついても怖くてできない企画。警察につかまるとか、訴えられるとか。それで僕は、警察に二度つかまった。でもすごいのは、その2つともオンエアしました。そこが闘いだと思っている。
それはクビになったの。僕はテレビの枠をどう超えるかっていうことに関心があり、やってみたいと。局は、それを嫌がるわけですね。そのため、在籍13年の間に3回干された。最後に2年ほど干され、時間があったので映画をつくったけどあたらなくてね。このときつくった借金を返すためですが、これがものを書くきっかけになった。ところが、筑摩書房の『展望』で「原子力戦争」という記事を連載したら、原発のPRをやっていた大手広告代理店から会社にクレームが入って。連載をやめるか、会社を辞めるか迫られてね。

非常に幸いだったんでしょうけど、仕事が途切れることはなかったですね。でもね、嫌だからといって会社を辞めたらだめだと思う。こっちをやりたいと、こっちが見つかって辞めるのはいい。「嫌だ」と行って逃避したって、何もないに決まっているじゃない。そうじゃなくて、ここじゃなくて、あっちがいいと。これやりたいということで仕事を変えるのは、僕はとてもいいことだと思う。
だったら、自分の職場を自分にとっていい職場にすればいい。自分にとっていい職場になるってことは、みんなそれぞれにとっていい職場になるんだから。まず会社に入って嫌だというのはね、もう初めからあきらめているんだよね。まず自分の入った職場を自分にとっていい職場にする。努力する。やっていると、いろいろ見えてくるんだ。またいい職場にしようと思って頑張っていると、引き抜きが来るよ。
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